どう云うわけか最近、以前に聞いた、能舞台の柱の事を思い出している。あの柱は一見邪魔ものに見えるし、確かに目障りにもなる。しかし、△能面をかぶって舞う時、安心でき、自由に舞える範囲となる。△見ている人の側では、不動の柱があるからこそ動きが分かる。?ーと云う。そう云えば、世の中には一見邪魔ものに見えても必要で、大切な役割りを果たしているものが多い。信仰の成長においても同じだと思う。不思議なことに、邪魔ものが、自由を造り出すために用いられる。ブレーキとなるものがそうだ。自由に行動したいと願う者にはブレーキは邪魔もののようだ。しかし、ブレーキは安心して行動出来る範囲を造り出している。車や機械のブレーキ、人の忠告やルールと云うブレーキ、周囲の環境や資材、人との関係のブレーキ・・。これらはその時保証されている安全と自由の範囲を教えてくれる。時には神のみことばや試練や祈りが聞かれず思い通りに行かないことがブレーキのように邪魔ものに思える。しかしこれらは、神が与えられた規準であり柱である。安心して自由に活動出来る舞台を造り出し教えている。
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