私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません

    静まりの時 ローマ8・31~39
    日付:2023年08月05日(土)

    31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
    32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
    33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
    34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
    35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
    “36 こう書かれています。/「あなたのために、私たちは休みなく殺され、/屠られる羊と見なされています。」”
    37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
    38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
    39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
    (ローマ8・31~39)

     イエスさまを信じた者はみな神さまが味方となっていてくださいます。イエスさまを信じていなかったときは、神さまが味方ではなく、敵であったのか、というとそうではありません。神さまはつねに私たち人間の味方であろうとされたのですが、私たちのほうが神さまの愛を拒否していたので、まるで敵であったような人生だったのです。和解の手は神さまのほうから差し出されました。私たちが神さまの前にひざまずいてこの和解の御手を受けいれた時から、文字通り神さまは私たちの味方としてともにいてくださいます。
     ですからもはや敵はいないのです。敵対するかに見えるものがあったとしても、敵ではないのです。敵に値するものではないのです。

    「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。」「だれが、私たちを罪ありとするのですか。」

     神さまから離そうとする誘惑が自らの心の中に生まれたとしても、もはや敵ではありません。

    「苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」

     神さまから引き離そうとするさまざまな苦難が起こったとしても、大丈夫です。

    「死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も」

     目に見えないさまざまなものが神さまから離れさせようとしても、主にある者は「圧倒的な勝利者」です。

     何があっても、あるいは何が無くても、「私たちをキリストの愛」「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛」から離されることはありません。ですから大安心なのです。

     神さまの愛が私をとらえているのです。
     もし私が神さまの愛をとらえようとしているならば、私の握力には限界があります。安心していられません。またもし私の言動や信仰的な態度如何によって、神さまの愛が私をとらえたり離したりするというのであれば、必死になって自らの義を守らなければならないでしょう。戦々恐々とした人生です。
     しかし、神さまが私をとらえてくださったのです。神さまが私たちの行い如何に関わらず、私を義と認めてくださったのです。神さまが十字架と復活の御業をもって私への愛を明らかにしてくださったのです。もはや自分で自分の義を証明しなければならないという生き方、自分の面目を保たなければならない、プライドを守らなければならないなどという生き方から解放されたのです。なんと自由で幸いな生き方でしょう。どうあっても神さまの愛が私から離れてしまうことがないのです。

     これがどんなに大きな恵みであるのかを学び続けることが信仰生活、礼拝生活です。そのためには、神さまに愛されるに如何にふさわしくない者であったのかということを知り続けなければなりません。自分がどこまでも罪びとであることを告白し続けなければならないのです。

    「パスカルによれば、自分の悲惨さを知ることの中でこそ、神をよく知るチャンスが訪れる。『自分の悲惨さを知らずに神を知ることは、高慢を生みだす。神を知らずに自分の悲惨さを知ることは、絶望を生みだす』(「パンセ」527、『世界の名著24 パスカル』前田陽一・由木康、中央公論社、1966年、269頁)」
    (芳賀力、『神学の小径5-成就への問い』、キリスト新聞社、2023年、18頁)