私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 敬虔な者たちの集まりで主への賛美を

    静まりの時 詩篇149・1~9
    日付:2023年10月06日(金)

    ハレルヤ。
    新しい歌を主に歌え。
    敬虔な者たちの集まりで主への賛美を。
    (1)

     「ハレルヤ」。主をたたえよ、の意味のヘブル語ですが、いまは多くの国の言葉でも、そのままの発音で語られる言葉となりました。主を賛美します、主の御名を賛美します、と同じ意味だと思います。賛美においてもそうですし、また祈りにおいても、このままの発音で祈ることも多いのではないでしょうか。最初にこのように歌うことによって、どんな状況の中にあっても、第一に主をほめたたえることを大切にしたいと思います。
     「新しい歌を主に歌え」。新しいにはいくつかの意味があるそうです。時代の最先端である、という新しさがあると思います。コンテンポラリーな、というか現代的というか。今の礼拝でよく歌われている聖歌、讃美歌は、おもに19世紀のリバイバル運動の中で生まれた賛美が多いと思います。その時、すなわち今から180年ぐらい前には、かなり先進的な賛美だったと想像します。黒人霊歌、ゴスペルなども新しい歌だったと思います。
     「新しい」には「新鮮な」という意味もあるようです。時間的に新しいというよりも品質的に新しい、という意味です。とれたての野菜や魚のように、見慣れたものかもしれませんが、みずみずしく生き生きとしているということです。賛美が新鮮である、というのには、歌う者の心のありようが深くかかわるかもしれません。どんなに現代的な賛美歌であっても、信仰の心がない中で歌われるならば新しい歌とは言えない、逆に歌い古されたと言われるような賛美歌であっても、神さまへの深い信仰によって歌われるならば、新しい歌、ということが出来るのだと思います。
     「敬虔な者たちの集まりで主への賛美を」。「敬虔」という言葉は、なかなか難しい言葉です。共同訳2018では「忠実な人々の集いで賛美の歌を」と訳されていました。神さまの前に忠実である、真実である、信実である、という心をもった人びとの集まり。この「集まり」という言葉は、七十人訳では「エクレシア」となっていました。新約聖書では教会と訳されるようになった言葉です。ひとりで賛美を歌うのも素晴らしいことですが、信仰の仲間と共に賛美を歌うことはさらに素晴らしいことでしょう。耳から入る賛美に励まされて、自らの唇から賛美が出てくる。それぞれの歌声が混ざり合って調和が生まれる。様々な声色(こわいろ)が、うつくしい音色(ねいろ)となる。賛美の捧げものとなる。香炉から立ち上る香りよい煙のように賛美が捧げられるのです。
     「敬虔な者たち」「忠実な者たち」は、新共同訳では「主の慈しみに生きる人の集いで」と訳されていました。自分の敬虔さ、忠実さ、ということではなく、それは主の慈しみ、主の愛に生きる人、生かされる人のことなのですね。主の愛を深く覚えて歌う歌は、どんなときにも新しい歌でしょう。
     今日も主の愛に生かされていることを感謝します。

     妻がキムチを買いに行ったお店で、初対面の店員さんから、たくさんもろうたから、とちくわのパックをいただいたと不思議な体験を語ってくれました。こんなところにも神さまの愛を感じました。感謝です。