私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 主のことばにおののく者たちよ、主のことばを聞け。

    静まりの時 イザヤ66・5,6
    日付:2023年11月29日(水)

    5 主のことばにおののく者たちよ、
     主のことばを聞け。
     「あなたがたを憎み、
     わたしの名のゆえにあなたがたを押しのける、
     あなたがたの同胞は言った。
     『主に栄光を現させよ。
     おまえたちの楽しみを見てやろう』と。
     しかし、彼らは恥を見る。」
    6 都から騒ぎが、宮から声が聞こえる。
     敵に報復する主の御声が。

     「同胞」。兄弟たちのことですから、ここでは同じユダヤ人のことを指しています。その同じユダヤ人が、「あなたがたを憎み、わたしの名のゆえにあなたがたを押しのける」人たちとなった。「主に栄光を現させよ。おまえたちの楽しみを見てやろう」という宗教的な言葉を用いながら互いに罵り合うことになっていたのです。同じ神の民であるユダヤ人どうしで、憎み合い、押しのけ合う状況が生まれていたのです。
     そのような状況の中に神さまの言葉が語られました。「都から騒ぎが、宮から声が聞こえる。敵に報復する主の御声が」。主は敵対する者に対して、その御声をもって戦われます。神さまのみことばは、まさに騒ぎを起こすものであり、敵への復讐の力を持っています。
     敵、というと、ユダヤ人にとっては自分たちを侵略したアッシリアやバビロニアが思い浮かびますが、ここでは同胞どうしが罵り合っているのですから、もう少し深い敵がそこには潜んでいるようです。

     苦しみの中にあって、その苦しみの原因を、互いに相手の問題として罵り合う。そのような状況にあって、本当の敵はいったいなんであるのか。それはお互いに自分の中にある罪の問題ではないか、と思います。
     罪といっても、犯罪を犯したとか倫理道徳に悖(もと)ることをしたというのではなく、ここでは、苦しみの中にあって、神さまの方向を向くことをしない、という罪です。罪は、的外れ、という意味だと説明されます。神さまという方向を外してしまっているのです。
     苦しみに出会った時も、神さまの方向を向く。神さまが何らかのお心をその苦しみの中に持っていてくださる。神さまは全知全能であり、善であり愛であるお方である。その苦しみの中にも何か意味があるに違いない。神さまの方向を向くことによって、そんな心にしていただくのです。

    さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
    弟子たちはイエスに尋ねた。
    「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
    イエスは答えられた。
    「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
    (ヨハネ9・1~3)

     苦しみの中にあってもまことの神さまの方向を向くとき、苦しみの原因探しから私たちは自由にされます。過去に目を向けることから私たちを解き放ち、前に向かう者へと導かれます。神さまの業への期待に生きる者としていただきます。みことばに聞く者は、互いに罵り合うことから自由にされて、神さまへの希望に生きる者となるのです。

    「主のことばにおののく者たちよ、主のことばを聞け。」

     2節に「わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ」とあります。神さまのみことばにおののく者、それが神さまのみことばを聞く者である、ということでしょう。
     みことばを聞くといっても、様々な聞き方があります。しかし真実に「聞く」ということは、その土台に、主の御言葉におののくこと、つまり、主のみことばへの畏れを持っているのです。主のみことばへの畏れを持たずに聞いていても、本当に聞いたことにはならないのです。
     畏れる、ということは、いたずらに恐怖することではありません。それは大切にすることであり、なによりも愛することです。みことばを愛する者こそ、みことばを真実に聞く者なのです。みことばは、愛してこそ聞こえてくるものなのです。

     神さまからの愛をいただくためにみことばを読みます。また神さまを愛するための愛をいただき隣人を愛する愛をいただくためにみことばを読みます。愛のない私たちの心に愛が注がれます。
     それとともに、愛をもってみことばを読む。みことばへの愛、聖書への愛をもって読む。そして神さまへの愛をもってみことばを読む。みことばの扉が開かれます。

     説教者には、この愛が大切です。ケーキのおいしさを誰かに伝えるために苦虫をつぶしたような顔をしていては、伝わらないでしょう。説教は、神さまの愛を伝えることです。それ以上でもそれ以下でもありません。であれば、語る者が神さまの愛にあふれていなければ、説教にはならないのです。(「お説教」にはなるかもしれませんが(笑))
     語る者が喜んでいなければ喜びは伝わりません。祈っていなければ祈りは伝わりません。感謝していなければ感謝は伝わらないのです。神さまがどんなに私を大切に思っていてくださり愛していてくださるのかを味わい知ること。そうして喜びがあふれる。もうこれ以上私の中にとどめていることが出来ないほどにあふれてくる。その「あふれ(溢れ)」が説教なのです。