私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい

    静まりの時 第一ペテロ2・11~17
    日付:2024年02月05日(月)

    11 愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
    12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。
    13 人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
    14 あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。
    15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。
    16 自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。
    17 すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。
    (11-17)

     愛する者たち。神さまに愛されている私たちに、ペテロは、そして聖書は勧めます。「たましいに戦いを挑む肉の欲をさけなさい」と。

     たましいに戦いを挑む肉の欲とはいったい何か。さまざまな肉欲、倫理的道徳的な逸脱、この世の欲望などが思い浮かびます。しかし続いて語られる言葉を読むと、この「肉の欲」の中身は、もう少し違って聞こえてきます。

     異邦人の中にあって立派に振る舞え、と勧められています。異邦人からは悪人呼ばわりされている中にあってしかし、立派に生きよ、と語られているのです。
     そうすると、ここで肉の欲、というのは、悪人呼ばわりされる中にあって、私たちが立派に生きることをできなくさせているもの、それこそ、肉の欲、と呼ばれているものであることが分かります。
     どんな理由であっても、悪人呼ばわりされる中にあって、立派に生きることはむずかしいものです。この立派という言葉は、美しい、とも訳される言葉です。悪人呼ばわりされる中にあっては、美しいどころか、醜く生きてしまうものではないか。醜く生きてしまおうとすること自体が、肉の欲からの戦いに負けていることなのです。

     どうすれば悪人呼ばわりされる中にあっても、立派に、美しく生きることが出来るのか。

     ここに「あなたがたは旅人、寄留者なのですから」と語られています。地上では旅人である、この世においては寄留者、新共同訳では、仮住まいの身なのだ。だからこの世のことには固執しないでおこう、すべてのものは一時的なものなのだ、とわきまえていよう、そうして旅人らしく軽やかに生きよう。そのことを忘れないならば、どのような中にあっても美しく生きることが出来る、と聖書は語ります。

     どのような中にあっても美しく生きているならば、あなたがたを悪人呼ばわりしているこの世が、神さまがやって来てくださるその日に神をあがめるようになる、ペテロは語ります。

     つづいてペテロは、しもべとして従う者となるように勧めます。美しく生きる者は、しもべとして従う者となります。

    「人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。」(13-14)

     この「王」と訳されている言葉は、単純に王と訳されるべき言葉ですが、新共同訳では、驚くべきことに「皇帝」と訳されています。
     当時において皇帝とはいったいどのような存在であったのか。日本における天皇や、世界の様々な、共和国ではない国において、象徴的であるか否かはともかく、さまざまな王と呼ばれる存在があります。その王を、はるかに超える権力と、偶像礼拝的な要素をもった「皇帝」。それにも従え、とペテロは語るのです。驚くべきことです。
     しかしこれこそ、この世では旅人であることをわきまえている、まことの自由に生きる信仰者の姿なのです。もし、「従う」という生き方ができないとすれば、まことの自由に生きてことなのです。

    「自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。」(16)

     自由だからといって、従わないのは、本当の自由ではない。結局、そこでは悪の言い訳として自由という言葉を使っているだけである、といいます。

     まことの自由に生きる。従う生き方をする、とは具体的にどのようなことであるのか。

    「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。」(17)

     まずすべての人を敬うことです。敬うと訳されている言葉には、「値をつける」という意味があります。品物を見て、これはいくらだろうか、と値踏みをする。その時、低く見るならば、その品物を軽くあつかうでしょう。逆に高く値踏みをするならば、尊く、大切に扱おうとするでしょう。自由に生きる人は、だれであっても、尊敬心を失わず、大切に扱うのです。隣人を大切に扱えない、低く見ようとするのは、自分が自由でない証拠です。この方も、神さまがその血潮を流して買い取られた尊い存在なのだ、ということを、まことの自由に生きる者は知っています。
     自由な人は、兄弟(姉妹)たちを愛します。共同訳2018では、ひらがなで「きょうだい」と訳されています。それは性別にかかわらず教会の仲間のことを言っているからでしょう。ジェンダーに対する考え方への配慮だと思います。自由な人は分け隔てなく、愛します。愛せないことは、不自由なのです。
     自由な人は、神を恐(畏)れます。神さまを大切にします。愛します。神さまに信頼し、すべてを神さまに委ねます。神さまを恐(畏)れることができないのは、不自由になっていることです。神さまを信じることは、まことに自由だからこそできることなのです。
     自由な人は、王(新共同訳では皇帝)を敬います。王を敬うのは、王も敬うべき「すべての人」の一人であり、愛すべき「きょうだい」の一人だからです。神さまを恐れる者は、このように王を敬うのです。

     『須賀敦子と9人のレリギオ』という本があります。本の紹介文に「須賀敦子の生涯と文学に光をあてるとともに、同時代を生きたカトリックゆかりの文学者、哲学者、彫刻家、科学史家、司祭等を取り上げた意欲的評論集」と書かれてありました。
     取り上げられている9名を列挙すると、まず須賀敦子(作家)ですが、それに続いて、犬養道子(評論家)、皇后陛下、村上陽一郎(東京大学名誉教授)、井上洋治(カトリック司祭)、小川国夫(小説家)、小野寺功(清泉女子大学名誉教授)、高田博厚(彫刻家)、芹沢光治良(小説家)、岩下壮一(カトリック神学者)。
     括弧の中に人物の肩書が書かれているのですが、皇后陛下にはありません。この皇后陛下は、2024現在の上皇后美智子さまです。肩書は書かなくても、この名称自体が肩書です。
     本のまえがきに、この本にとりあげられた人物が、必ずしも受洗したキリスト者ばかりではない、と書かれていましたので、上皇后さまはその通り受洗した方ではなのですが、上皇后さまの紹介として「へりくだりの詩人」という言葉がありました。
     へりくだる、謙遜である、それはどのような中にあっても、従おうとする生き方を生きようとされている方なのだな、と思わされます。まことの自由に生きておられる方の姿があるように思いました。

     キリスト教会によっては天皇制についていろいろな意見を主張するところもあるようですが、今朝のみことばに従うとすれば「王を敬いなさい」という言葉に、まことの自由に生きるキリスト者、神さまに愛されていることを知っているキリスト者のその生き方の方向性は定まっているように思います。