私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい

    静まりの時

    • テーマ:教会の交わり
    • 聖書箇所:エペソ4・25~32
    • 日付:2026年06月03日(水)

    32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

    教会の交わりは、「互いに親切にし、優しい心で赦し合う」交わりです。

    互いに親切にする、優しい心で赦し合う。「互いに」、「合う」という言葉が語っているように、一方通行ではありません。お互いに為すべきことです。他人のことはコントロールできませんので、他者から自分が如何に親切にされているか、赦されているかを考えても意味はありません。自分が他者に対して親切にしているだろうか、赦しているだろうか、を考えなければなりません。

    親切にする、赦す、ということは具体的にどのようにすべきなのか。

    もしかするとその前の節までに書かれていることかもしれません。

    25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

    26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

    27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。

    28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

    29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

    30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

    31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。

    • 偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語る。真実を語るということは、嘘偽りを捨てるということですが、何が嘘偽りなのかは、難しいところです。愛を語るということではないかと思います。愛のない言葉は、どんなに正しく見えても偽りである、といわなければなりません。
    • 怒っても、罪を犯さない。すなわち、怒ったままで日が暮れるようであってはいけない。怒ることは自然なことですが、それを何日も持ち続けることは罪なのです。中には何年、何十年も持ち続けている人がいます。その怒りは自らを滅びしてしまうのではないかと思います。人生は限られています。怒りでなく喜びと感謝を持つ時間を少しでも長く過ごしたいものです。
    • 悪魔に機会を与えない。この場合、前節まで書かれていた偽りを語ること、怒りを何日も持ち続けることが想像されますが、それ以外にも悪魔が喜ぶことはたくさんあります。悪魔はつねにチャンスを狙っています。
    • 盗みをしている者は、もう盗んではいけない。驚くべきことは教会の中に盗みをしている者がいたということです。現代のような福祉社会ではないので、そういうこともあったのだと思います。パウロは、ただ盗みを止めよ、というだけではなく、むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい、と語ります。労働は、自分のためだけではなく、他者のために行うものである、と語ります。
    • 悪いことばを、いっさい口から出してはいけない。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つ言葉を語り、聞く人に恵みを与えよ。悪い言葉とはいったいなんであるのか。それは、人の成長に役立たない言葉、聞く人に恵みを与えない、むしろその逆を与えてしまう言葉、人を壊してしまう言葉だと思います。パウロは悪い言葉をただ語ってはいけない、というのではなく、「いっさい口から出してはいけない」と語ります。口から出さない。それがキリスト者の在り方です。悪い言葉は、ヘイトスピーチがヘイトクライムを生み出すように、口から出されると独り歩きし、まるでクラスター爆弾のように人を傷つけ社会を破壊します。
    • 神の聖霊を悲しませてはいけない。先に語られた悪魔に機会を与えると同様の言葉だと思います。聖霊さまが悲しんでおられる。その悲しみが自らの痛みとして理解できる。そのためには人格的な神である聖霊への愛が必要とされます。聖霊を悲しませないという言葉がエペソの兄弟姉妹たちに真実に響くとパウロが期待した根拠は、他のキリスト者と同様にエペソの兄弟姉妹も、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されている者たちであるからです。キリスト者である、ということは、聖霊による証印を押された者である、ということです。パウロはそれを見失いません。
    • 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。共同訳2018では「恨み、憤り、怒り、わめき、冒瀆」。無慈悲とは恨みのことである。恨むとは憎しみを抱き続けるということだと思いますが、それが無慈悲ということだと聖書は語ります。逆に慈悲がある、ということは、憎しみを持たない、ということです。怒号とは怒り叫ぶことですが、わめくといことです。大声で叫ぶということ、と共に、騒ぎ立てる、という意味があるかもしれません。大声でなくても、人をおとしいれるために静かな怒号のようなもの。ののしり、は、冒瀆とありますので、人に対することもあるかもしれませんが、むしろ神さまに対するものと考えることもできます。もっとも罵ろうとしている他者も神さまによって造られたものですから、おおよそ人をののしる者は、神さまをののしっているのです。悪意とともに捨てよ、ということですから、動機とともに捨てる。この場合、捨てるということが大切かもしれません。後生大事に持ち続けているのではなく、捨てる。どうしても捨てられない、という性質が人間にはあるのです。それは悪魔の喜ぶことです。

    32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

    キリストにおいて神さまに赦していただいた、ということは、神さまに親切にしていただき、優しい心で赦していただいたことなのです。