聖霊が間違いを犯し、矛盾し合うということは、あり得ない。しかし、どれほど崇高な真剣さを持っていても、私たち人間が間違いを犯すということは、起こり得ることである。・・・
「人のことを思わないで、神のことを思う」道(マタイ16:23参照)。その道が、そのような場合における優れた道であり、正しい導きという保証を与えられる道なのである。リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、218頁
使徒行伝21章14節
2012年06月27日(水)
「導き」という言葉は、教会の中で、また信仰生活の中で、しばしば使われています。
ただそれぞれの導きがいろいろなので、教会は時に混乱します。お互いに信仰の確信を持っているので、余計にややこしくなります。私は導かれました、ということでどれだけの人間的な思いが前進してしまったことでしょうか。自らもただ反省です。
きっと神さまのことを思うということに尽きるのでしょう。導きという言葉の陰に、どれだけ多くの人間的な打算や欲望が隠されていることか、と思います。