私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 御霊によって荒野に導かれ、 四十日間、悪魔の試みを受けられた

    静まりの時 ルカ4・1~13〔いのちのパン〕
    日付:2024年11月23日( 土)

    1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、
    2 四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

     「悪魔の試み」。それは「聖霊に満ちてヨルダンから帰られた」ときに起こりました。またそれは「御霊によって荒野に導かれ」てのことでした。聖霊に満たされる、ということは、悪魔の試みを受けないということではなく、むしろ悪魔の試みを受ける準備が整った、という感じです。
     そんなことなら聖霊に満たされないほうが良いのではないか、とも思えますが、そもそも洗礼を受ける、ということは、三位一体の主の名によって受けるものですので、そこで聖霊に満たされるということが起こります。不思議な現象や本人に神秘的な体験が伴わなくとも、そのときに聖霊のバプテスマを受けるのです。ですからキリスト教の洗礼に与った者は、みな悪魔の試みの中に生きることになります。
     「試み」というのですから、それが自らを試みることである、ということを知るようになった、ということです。たとえばギャンブルの誘惑、と言った場合、ギャンブルが自らにとって誘惑である、ということを知っている、ということが前提とされています。洗礼を受けるということは、そういうふうになんらかの倫理的な基準を持つということと結びついています。洗礼を受けると、今まで誘惑とは思わなかったものを誘惑と認知するようになることがあります。

    3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」
    4 イエスは悪魔に答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」

     第一の誘惑は、石をパンに変える、というもの。空腹を覚えられたイエスさまにとっては大きな誘惑であったと思います。しかしこれが誘惑になるのは、イエスさまが石をパンに変えることができるからです。私たちにとっては誘惑でも何でもありません。石をパンに変えることなど私たち人間には不可能だからです。
     できる、ということは、良いことのようで、少し曲者です。科学が進歩することは、良いことですが、「できる」ということが、さまざまな問題を生み出します。原子力技術のなかったときは、原子力の脅威は存在しませんでした。兵器が単純だったころの戦いと、現在の戦争はまったく異質なものになっています。
     イエスさまは、人はパンだけで生きるのではない、と言われました。これは申命記8章3節からの引用とのことです。パンだけで生きるのではない、では何で生きるのか。それは神の口から出る一つひとつの言葉で生きるのです。
     聖書の言葉が私を生かす。それはパンはどうでもよい、と言っているのではありません。パンとみ言葉は、両方とも大切なものです。しかしパンだけになってしまうと人間として生きることがむずかしくなる。パンだけで生きていると、それは人間として生きていることにならない。人として生きるために、この誘惑にあらがい続けなければなりません。

    5 すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、
    6 こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。
    7 だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」
    8 イエスは悪魔に答えられた。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

     第二の誘惑は、「国々の権力と栄光」を手に入れるために、悪魔を礼拝する誘惑です。これは悪魔を信じるということが前提とされていますが、悪魔を信じていない者にとっては誘惑ではないのか。悪魔を信じなくとも、自らが国々の権力と栄光を手にしたいとの願望はだれにでもあるのではないか。国々の権力と栄光、とまでは言わなくても、自分が王となって、周りのひとを自分の願望の通りに支配しコントロールしようとする心はだれにでもあるのではないか。それは悪魔を拝んでいるわけではないが、この誘惑の中にあるように思います。それは結局自分を王としている、主としてる、神としている、ということです。悪魔を拝む、ということと、自分を拝むということとは密接に結びついているのです。ですからキリスト教会は、罪からの救いと、自己中心からの解放、神さまを心の王座にお迎えすることとを結びつけて考えています。
     この自己中心の罪から救われなければ、人間は本当に救われたとは言えないのです。

    9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。
    10 『神は、あなたのために御使いたちに命じて、
       あなたを守られる。
    11 彼らは、その両手にあなたをのせ、
       あなたの足が石に打ち当たらないようにする』
       と書いてあるから。」
    12 するとイエスは答えられた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」

     第三の誘惑は、神さまを試す、ということです。そのために、聖書の言葉が引用されています。聖書の言葉が引用されているからと言って、それがキリスト教信仰を現わしているとは言えないのです。さまざまな宗教も聖書を引用します。キリスト者も、聖書を引用するときに、それは本当にキリスト教信仰を語っていることになっているかは吟味されなければなりません。案外、聖書をそのまま語っているといっても、本来のキリスト教とは似て非なる主張がなされていることもないわけではありません。
     神殿の屋根の端から飛び降りることになっても神さまは助けて下さったでしょう。しかし何かの事情で飛び降りざるを得ない状況に陥った、ということと、わざわざ飛び降りるということとは同じ行為ですが、まったく意味の違うことです。
     この誘惑は、神さまを試すということなのです。主は、神である主を試みてはならない、と答えられました。なぜ試みてはならないのか。
     試みと、愛とは正反対の行為だからです。
     もし愛する人の心を試してみようとして、わざと相手の嫌がることをしたとしましょう。それでも愛してくれるだろうか、との試し行動は、人間としてすでに幼いころからやってしまうことです。しかしそれをやられた人は、それでもその人を愛そうとするだろうか。逆にだれかに愛を試されてもなおその人を私たちは愛そうとするだろうか。
     試す。すなわち自分の課した試験にあなたが合格したら、私もあなたを愛そう、という愛は、本当の愛なのだろうか。神を愛す、神を信じる、と言った場合に、私が神として考える基準に合格したら神と認めてあげよう、という信仰は果たして信仰なのだろうか。

    13 悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた。

     悪魔は「あらゆる試み」をしたと聖書は語ります。三つの誘惑が書かれていたのですが、そのほかにもさまざまな誘惑があったとも読めますが、むしろ、この三つの中にすべての誘惑が込められていたのだと思います。信仰者の誘惑はこの三つで、すべてを語ることができるのです。
     私はいま誘惑を受けているだろうか。誘惑を受けているとすれば、それはどんな誘惑だろうか。この三つの試みの中のどれに当たるだろうか、と黙想し、その試みに対して勝利する道を選択したいと思います。

    「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6・12)