私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 神さまを愛すること、み言葉に聞き黙想すること

    「一般のキリスト者は型通りの祈りを使用しています。あなたは子供のときの祈りをそのまま続けてはいませんか。しかし、個人的なデボーションにおいても『最高の道』(第1コリント12章31節)があるのです。あなたの内的・外的な状態を考慮に入れながら、あなたの祈りの方法を変更しなさい。」

    詩編62篇2
    2013年6月5日(水)

    『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
    (編)A.ルシー、(訳)坂本誠
    170頁

    型通りの祈りとは、式文の祈りということでしょうか。式文の祈りのように型にはまった祈りではなく、自由に自分自身の心を注ぎだすようにとのお奨めです。

    ここでは「個人的なデボーションにおいて」と語られていますので、礼拝など公の集会での式文による祈りが否定されているのではありません。式文の祈りもとても大切です。
    しかし、個人的なデボーションにおいて、神さまと一対一になって、心を開いて、あるがままに自分自身の心を神さまの前に注ぎだすことはとても大切なことです。言葉を飾る必要はありません。言葉が整っている必要もありません。時に叫びであり、時に嘆きであり、時に感謝であり、時に沈黙をもって神さまの前に心を注ぎだすのです。

    この自由な祈りがコリント人への手紙の「最高の道」として示されています。最高の道とは「愛」です。つまり神さまを愛することです。神さまへの信仰、神さまへの希望、そして神さまへの愛。その中で最も優れているのは、神さまへの愛である、ということです。

    神さまを愛すること。確かにこれこそ最も優れた道「最高の道」なのです。
    神さまの前に幼子のようになって自らの心を注ぎ出す者でありたいと思います。

    「賛美の詩編を読み、黙想することで、感謝の心が自然に呼び起こされます。それは他の形式よりも『最高の道』なのです。」(同)

    神さまを愛すること、神さまへの自由な祈りの生活は、自らが語るということだけではありません。詩篇を読み、黙想することです。

    詩篇を読む。神さまの言葉に耳を傾けるのです。心を開いて神さまの言葉を聞くのです。
    黙想する。静まって神さまのお言葉に心をめぐらすのです。また自分自身の置かれている状況、自分自身の心のありさま、などなど、神さまのお言葉に導かれて思いめぐらすのです。こうして神さまを愛するのです。これこそ、最高の道なのです。

    この最高の道を歩まずして人生の祝福は語れません。神さまが祝福してくださる道を歩みたいと願うならば、この祈りの生活を外してはいけません。