私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • みずからの大きな罪を認めよ

    〔罪人らの手の中で〕

    2014年4月2日(水)

    「友よ、何のために来たのか。」(マタイ26章50節から)

    イエスはこの期に及んでもなお、ユダを「友」と呼んでいる。イエスは、今もなお、ユダを離そうとしない。イエスはユダの接吻を受ける。イエスはユダを退けないのである。ユダは、今や、イエスに接吻しなければならない。ユダとイエスとの交わりは、今や、終わりまで行きつかなければならないのである。
    ・・・
    情熱的な愛の最終的なしるしが、ここでまさに、情熱的な憎悪とひとつとなるのです。
    ・・・
    このユダの接吻。キリストから離れ去ることはできないのに、キリストを捨て去ろうとするこの行為・・・。
    ・・・
    結末をみることにしよう。・・・いたずらな後悔によって、みずからを罰した。なんという恐るべき連帯が、ここにあるのであろうか。
    ・・・
    キリスト教はこのユダのうちに、繰り返し、神の排斥と永遠の刑罰の暗い謎を見てきた。裏切り者に対する神の峻厳と審判とを恐れをもって認め、かつ証ししてきた。そしてこのことによって教会は、決して、誇りと思いあがりをもってユダを眺めることをせず、むしろみずからの大きな罪を認め、震えながら、「ああ、あわれなユダ、お前は何ということをしてしまったのか」〔賛美化の一節〕と歌ってきた。われわれもまた、今日、「ああ、哀れなユダ、お前は何ということをしてしまったのか」と歌うこと以外は、何も言わないことにしよう。そして、われわれすべての人間の罪のために十字架につけられ、われわれのために救いの業を完成してくれた方に助けを求めようではないか。

    ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
    村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、165頁f。

    誇りと思いあがりをもってユダを眺めることをしないようにしましょう。ただ、みずからの大きな罪を認め、震えながら、イエスさまに助けを求めたいと思います。

    (祈り)
    神さま、罪人である私をどうかあわれんでください。