私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 収穫のためには一刻の猶予もない

    〔使者〕

    2014年4月25日(金)

    「収穫は多い。」(マタイ9:35~38から)

    救い主のまなざしは、深いあわれみをもって、主の民、神の民の上に注がれる。
    ・・・
    人間的に見れば、それは全く希望のないことであるかもしれない。しかし、イエスにとっては、そうではない。イエスは、神の民がしいたげられ、みじめな、みすぼらしい姿で自分の前に立つこの場所にこそ、神の豊かな収穫の畑を見るのである。
    ・・・
    イエスは自分の業をただひとりでしようとはしない。イエスを助ける協力者とは誰であろうか。神のみが、それを知って、み子に示すに違いない。それとも、われわれはみずからすすんで、イエスの助け手となることを申し出ようとするのか。しかしこのことは、弟子たちにさえ許されていないことなのである。弟子たちは、ただ収穫の主に、<収穫のために、今、この時に、働き人を送り出してください>と願うことだけをすべきである。なぜなら、まさに、この時こそ、収穫の時なのだからである。

    ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
    村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、206頁ff。

    人間的に見て希望にあふれた所に立って収穫が多いといわれたのではなく、人間的に見て希望のない所に立って収穫が多いと主はいわれました。主はこの収穫をご自分だけではなさらず共に収穫する者を求めておられます。私たちはそれにどうこたえるのか。主はただ祈りなさいといわれました。

    (祈り)
    神さま、収穫の主であるあなたに祈ります。収穫の時である今この時、あなたの御業にあずからせてください。