私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • キリスト・イエスが私を捕らえてくださった

    静まりの時

    • テーマ:地上の旅人
    • 聖書箇所:ピリピ3・8~16
    • 日付:2025年10月10日(金)

    10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
    11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
    12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

    パウロは「捕らえようとしている」と語ります。捕らえようとしているということは、今はまだ捕らえることができていない、ということですが、その「捕らえることができていない」私を、キリストが「捕らえていてくださる」と告白します。
    キリスト信仰に生きる、ということは、捕らえている、ということに生きるのではなく、捕らえられている、ということに生きることです。私が能動的に神を捕らえる、ということに生きるのではなく、神が私を捕らえていてくださる、私はというと捕らえられた者である、ということに生きることなのです。

    9節で

    私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

    と語っていますが、共同訳2018ではこの節は以下のように訳されています。

    9 キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。(共同訳2018)

    「信仰」という言葉が「真実」と訳されるようになりました。

    信仰というと、当然「私の」信仰、ということですから、私の行為、です。しかしここで信仰と訳されている言葉は、その前の文章に「自分の義ではなく」とありますので、私の信仰が、私の行為に終始することでは、文意に矛盾を起こします。
    ここで言わんとしていることは、徹底して神さまの働き、神さまの一方的な行動によって、私たちは義と認められる、ということですから、キリストを信じることによる義、というこの「信じる」は、私の行為であって、しかし私の行為ではないはずです。
    そこで、原文の意味の一つである「真実」と訳し、神さまの行為であることを明確にしたのだと思います。

    信じるという行為は、私の行為ですが、その前提として、信じられるもの、があるはずです。その信じられるものの確かさが、私の内に信仰を生み出す。
    あるいは、信じるということが、信頼する、ということであれば、信頼に足るものがそこに存在している、ということが前提になっているはずです。その信頼に足るものが私のうちに信仰を生み出す。決して私が自己喪失をして、未自律、未自覚に信じるようになる、ということではありません。自己は自己としてしっかりと存在している。信じることによってかえって確かに自己が存在するようになる。
    そんな相互浸潤のようなことが起こる。もうこれは聖霊の働きという以外にはないのだと思います。
    そんな素敵な働きを私の内になしてくださるお方が、全知全能の創造者であり、十字架と復活の愛をもって、全力で私を愛していてくださるお方なのです。