私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

    静まりの時

    • テーマ:死に打ち勝つ
    • 聖書箇所:第一コリント15・12~19
    • 日付:2025年11月04日(火)

    12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

    キリスト教会は「キリストは死者の中からよみがえられた」と宣べ伝えています。この世にはいろいろなキリスト教会といわれるものが存在していますが、それがほんとうのキリスト教会であるかないかの違いはこのキリストの復活を宣べ伝えているかどうかなのだと思います。どんなに立派な会堂があり、華やかな活動が展開され、魅力的な人たちが集まっていたとしても、これが宣べ伝えられていないとすれば、それはキリスト教会とは言えません。さらには、十字架の贖いが宣べ伝えられているかに見えても、もしそこに復活が語られていないとすれば、その十字架の贖いは、不十分なこととなります。私たちは十字架のみによって救われているではなく、十字架と復活によって救われています。

    主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(ローマ4・25)

    ここで問題となっているのは、そのキリスト教会であるコリントの教会において、「死者の復活はないと言う人たち」がいたことです。公には死者の復活を肯定していても、心の中ではどこか受け入れていない、否定している、というのではないのです。公然と、死者の復活はない、と言っている人たちがいたのです。あるいは講壇の説教において、死者の復活はない、と語られてしまっていた、ということなのだと思います。驚くべきことです。

    パウロは、死者の復活がないとすれば、それがどんなに虚しいことであるのか、を語ります。「もし死者の復活がないとしたら」と2回繰り返して語っています。

    13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
    14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
    15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。

    16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
    17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
    18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
    19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

    復活がないということであれば、「宣教」が空しい、空っぽである、といいます。宣べ伝える、ということは、いのちを宣べ伝えることであり、救いを宣べ伝えることですが、それがすべて中身のないことになる。単なる気やすめとなってしまう。全く力のないことになってしまう。
    復活がないということであれば、「信仰」が空しい。信仰は、自らを生かす力でありいのちです。それが空っぽとなってしまう。罪が赦されたといっても、中身がないものとなってしまう。ただ赦されたといっているだけで、ふたを開けてみると、依然罪の中にいる。さらには信仰をもって死んだ者も、結局は滅んでしまった。死者は思い出の中にあるだけの幻で、存在していないことになる。なんと哀れな者であるのか。
    私たちの愛も、善行も、いのちも、人生も、すべて空しく空っぽのものになってしまう。

    しかし、キリストは復活されたのです。

    20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

    そして主にある私たちもこの復活に与ります。死はこの復活という勝利に呑み込まれてしまいました。復活の希望に生きる私たちは、主のご再臨を待ち望みつつ、いまの時を喜びと感謝をもって主のわざに励みます。

    自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(58)