私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた

    静まりの時

    • テーマ:目をさまして
    • 聖書箇所:マタイ25・1~13
    • 日付:2026年02月19日(木)

    3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
    4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。

    ここで言われている愚かさとは、ともしびを持っていなかったことではなく、油を入れて持っていなかった、ということ。

    世を照らすともしびを持っているのです。しかしそのともしびを灯し続けるための油が備えられていない。それが信仰生活の愚かさである、と。

    輝くような信仰生活があっても、その輝きが持続するための油。聖霊の油と説明されることが多いと思いますが、ここは「恵み」と理解するのもいいのではないかと思います。恵みこそ、信仰生活を持続させるものであり、再臨のときに備えているべきものである、と。花婿が来るのが遅くなって眠ってしまったのは愚かな娘だけではありませんでした。賢い娘も眠ってしまったのです。しかし恵みの備えは、それが恵みであるがゆえに、たとえ自分が眠ってしまっても消えることがありません。

    賢い娘たちは、主の再臨のときに、油を備えていなかった娘たちの申し出を断りました。神さまからの恵みは、他に分け与えることのできるものではない。自分と神さまとの一対一の関係の中にこそ存在するものなのだと思います。おなかの空いている人のために、代わりに食事をとってあげても意味がありません。信仰のない者のために代わりに信じてあげる、ということは不可能なのです。

    主の再臨に向かって信仰の備えをしていること。いつも神さまの恵みに生かさていること。入れ物に油を入れていたいと思います。