私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 神が許されるなら、先に進みましょう

    静まりの時

    • テーマ:復活の信仰
    • 聖書箇所:ヘブル6・1~8
    • 日付:2026年04月14日(火)

    1 ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、
    2 きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。
    3 神が許されるなら、先に進みましょう。

    復活の信仰に生きる私たちは、過去にしばられて生きるのではなく、いつも将来に向かって新しく生きるように招かれています。

    初歩の教えを後にする、基礎的なことをもう一度やり直さない、とありますが、けっして幼稚な教えからより高度な教えに前進しなさい、と言っているのではないと思います。初歩の教え、基礎的なことを、ここでは「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど」と説明されています。これらを繰り返したいと思うのには、自分のなかに何か物足りなさを感じているからかもしれません。しかし、イエスさまを信じて洗礼を受けた、そうして礼拝においてみ言葉を聞き聖餐にあずかっている、それだけで十分である、あるいはそれこそ確かなことである、というのだと思います。だからいつまでもそういうところにとどまっていないで、先に進もう、というのです。

    では先に進むとはいったいどういうことであるのか。

    5節に「神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで」という言葉があります。

    神さまのみ言葉を味わう、来るべき世、すなわち天国の力を味わう。そういう中に今置かれていることを見失うことなく、ますますそのすばらしさを味わっていこうではないか、と言うのだと思います。あるいはそれらを味わうということこそ、信仰の前進である、と言うのだと思います。

    信仰の前進とは、過去に捕らわれることからいつも自由にされ、み言葉を味わい、いま神さまのご支配の中に生かされていることを喜んで生きることです。信仰に生きるということは、そういうことなのです。なんと素晴らしいことでしょう。