静まりの時
- テーマ:聖霊に満たされる
- 聖書箇所:ヨハネ7・37~39
- 日付:2026年05月30日(土)
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
「祭りの終わりの大いなる日」。その日にはたくさんの水が注がれ祭りは最高に盛り上がるそうです。水が溢れる中に主は言われます。「だれでも渇いているならば」と。
果たして渇いている人などその場にいるだろうか、というような中で、渇きを問われました。私たちは渇いているだろうか。自らの渇望に気づいているだろうか。
渇きを知らない者は、飲むことをしません。飲むことができません。私たちは自分の中の渇きを知らなければなりません。
しかしたとえ自分が知らなくとも私の渇望を主は知っていてくださいます。たとえ自分では見失ってしまっている渇望であっても、あるいは故意に無視している渇望であっても、主は知っていてくださいます。私たちはすべて主に招かれています。主のもとに行って、主から「飲む」ことを。
主が私の渇きを癒やしてくださいます。主に渇きを癒やされた者は、その心の奥底から「生ける水」が流れ出るようになります。自分の渇きを癒やすだけにとどまらず、他者の渇きを癒やす者として遣わされます。聖書はそう語っていると主は言われました。
イエスさまを信じて聖霊を受ける者は、他者の渇きを癒やし潤す者となる人生へと招かれています。
このときはまだ聖霊は注がれていませんでした。聖霊は五旬節の日に注がれました。その為に主は栄光をお受けになられました。
主がお受けになられる栄光とは、昇天であり、復活であり、そして十字架です。昇天も復活も、栄光、という言葉がふさわしいように感じますが、十字架も、あるいは十字架こそ、主が栄光をお受けになられたことです。十字架のないところに復活も、そして昇天もありません。