「何を以て善争と言う。曰く、不争の争なればなり。神愛の争なればなり、救世の争なればなり。奉事の争なればなり。友の為に己を失ふの争なればなり。斯の道を行ふに当りては勇往にして敢て師友にも譲らざればなり。」
新井奥邃、『聖言』、157
「なにを指して良き戦いということができるのであろうか。それは争わない道を歩むための戦いである。神さまの愛を実行することの戦いである。世を救うための戦いである。神さまに仕えることにおける戦いである。友のために自分自身を失うことにおける戦いである。その道を歩んでいくことにおいてはためらわず前進し、あえて師や友にも譲歩しないのだ。」
信仰の道における戦いは、神さまの愛を実行すること、この世界を救うこと、神さまに仕える事、共にために自分を失うこと、の戦いです。この戦いにおいては、先生も生徒もありません。師匠も弟子もありません。
それは自分自身との戦いといってもいいでしょう。そのような戦いを経験することによって、人間は神さまの喜ばれる人生に生きるようになり、結局は自分自身が豊かな人生を歩むようになるのです。
〔聖書の個所〕
しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
(第1テモテ6章11~12節)
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
(第2テモテ4章7節)