「日に月に謙を以て謙を学び、日に月に謙に居て謙を行はむ。不遜を以て人と競争する事必ず之れあらじ。不遜を以て競争するは、啻に其道に非ざるのみならず、其事或は小と雖も審判の危きを免かれざればなり。是れ唯謙に居て謙に長ずる者のみ能く之を知る。」
新井奥邃、『聖言』、155
「日々謙遜をもって謙遜を学び、日々謙遜において謙遜を行おう。思い上がった心で他者と競争する事があってはならない。思い上がって競争する事は、ただその道に反するのみならず、それはわずかなことであったとしても、審判の危険を免れることはない。これはただ謙遜において謙遜に長けている者だけがよくこのことを知っている。」
謙遜に生きるということは、ただ人前でのこととして捕らえるだけでは十分ではありません。神さまの前に謙遜であるかどうかが大切なことです。ただ人前で謙遜をと考えるならば、陰では謙遜を忘れることがあるでしょう。人前であっても、人前でなかっても、つねに神さまの前に謙遜に生きることが大切なのです。
人間にはいつかかならず神さまの前に立って審判を受ける時がやってくると聖書は語ります。その時が恐怖の時ではなく、喜びとの時となるように、今この瞬間を大切に生きることです。それは常に神さまと共に生きることによって形作られるのです。
〔聖書の個所〕
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。
(使徒24章16節)
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
(へブル9章27節)