「祈禱は已を利するが為めにあらざるなり。是れ乃ち祈禱の祈禱たる所以なり。何となれば祈禱は己を失ひを求むる事にして、己を利するの方法とは正反するものなればなり。祈禱の益する所は甚大なり。然れども其益する所は、己を失ふに在りて、己を利するには毫も益する所あらざるなり。」
新井奥邃、『聖言』、153
「祈祷は自分自身に利益を与えるためにあるのではない。これこそ祈祷の祈祷たるゆえんである。なぜならば祈祷は自分自身を失うことを求めることであるので、自分自身に利益を与えることとは正反対のことである。祈祷の益するところは甚大である。しかしその益するところは、自分自身を失うことに在るから、自分に利益を与えようとして祈るならば、すこしも益することがない。」
多くの祈りは、自分に、あるいは自分の愛する者に祝福をいただきたいという願いです。しかし新井は、祈りというものは自分自身が得をするためにすることではない、逆に自分自身を失うためにするのである、と語ります。聖書の語る祈りには、自分自身に益をもたらすための祈りがないわけではありませんが、この新井の言葉はまさに聖書の真髄を語っていると思います。
回心するということは、罪の方向を向いていた私が神さまの方向に向き直るということです。それが聖書の語る救いです。聖書の語る罪とは、自己中心ということです。自己中心から神さま中心になるのです。そうして人間は救われるのです。ところが、祈りにおいて自分自身に利益をもたらすことを考えているという状態は、自己中心から抜け出せていないということでしょう。信仰においてなお自己中心にとらわれているのです。それでは救いはありません。
自己中心から回心して自分自身を失うということは、自分自身を神さまの御手に委ねるということです。自分を自分がコントロールすることによってよりよく生きることができたか、といえばそうでもありません。私のことを愛していてください、すべてのことをご存知の神さまの御手の中に生きることこそ、よりよく自分を生きることなのです。
〔聖書の個所〕
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
(ルカ9章23~25節)