カテゴリー: 新井奥邃

  • 「己の利を計らずして人を愛するは祈りの実なり。故に愛を以て食事を備ふるは祈りなり。愛を以て圃田を作るは祈りなり。人を推して自ら下るは交際の祈りなり。邪を禦(ふせ)ぎて正を守るは神戦の祈りなり。道の為めに悪を悪(にく)むは、斯の道を体する祈りなり。耐忍して以て人を救ふは、神の命を奉ずる祈りなり。」

    「己の利を計らずして人を愛するは祈りの実なり。故に愛を以て食事を備ふるは祈りなり。愛を以て圃田を作るは祈りなり。人を推して自ら下るは交際の祈りなり。邪を禦(ふせ)ぎて正を守るは神戦の祈りなり。道の為めに悪を悪(にく)むは、斯の道を体する祈りなり。耐忍して以て人を救ふは、神の命を奉ずる祈りなり。」

    新井奥邃、『聖言』、152

    「自分の利益を求めずに他者を愛することは祈りによって結ぶことのできる実である。よって愛をもって食卓を整えることは祈りである。愛をもって田畑に労するのは祈りである。他者を推薦して自分自身は後に退くことは交際における祈りである。間違ったことに抵抗し、正しいことを守るのは、神の戦いにおける祈りである。道のために悪を憎むことは、その道を体得する祈りである。耐え忍ぶことによって他者を救うのは、神の命令に仕えようとする祈りである。」

     祈りというのはこの場合、神さまのお力におすがりするということだと思います。宗教の中には祈りを自分自身の内に在る力の開花のようにとらえるものもあると思いますが、キリスト教の場合は祈りは他力本願の道です。隣人を愛し、神さまの喜ばれる道を歩むことは自分の力でできることではありません。ひたすら祈りによって、神さまからのお力をいただき、そうして初めてできることです。
     もし隣人を愛し、神さまの喜ばれる道を歩むことが、自分の力でできたとするならば、結局のところ自分の高慢な心を育てることになるでしょう。外からは立派な歩みに見えるかもしれませんが、内心には傲慢な心が満ちて、他の人びとを見下す生き方となるでしょう。
     すべてのことが祈りによって成り立つのです。座して神さまの前に心を静めることも祈りですが、家庭にあって、職場にあって、学び舎にあって、地域社会の中にあって、さまざまなこの世の営みの中にあっての具体的な歩においてもすべて祈りによることであり、また祈りそのものなのです。
     愛をもって取り組もうとすることは祈りによって成り立つことですが、愛をもって取り組もうとすること自体、祈りということもできるでしょう。祈りがあるならば、おのずとその心から神さまに愛がにじみ出てくるのです。

    〔聖書の個所〕

    いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
    (第1テサロニケ5章16~18節)