「基督は宗教の開山たるが為に来りしにあらず、基督は凡民を救ふ為めに来たり、之れが為に死して、之れが為に復生く。彼は牧師に非ず、牧人なり。彼は獣性に非ず人の子なり。即ち天父にして天子、即ち惟一真人なり。」
新井奥邃、『聖言』、81
「キリストは宗教の創始者になるためにこの地上に来られたのではない。キリストはすべての人を救うために来られた。このために死なれた。このために復活されたのである。彼は職業的な牧師ではない、まことの羊飼いである。彼は肉体的欲望など動物的な性質を持った存在ではなく人の子である。すなわち天の父であって、しかも天の子である。すなわちただ一人のまことの人である。」
キリストは罪と滅びの中にしか生きることのできない人間を、その罪から、そして滅びから救うためにこの地に来てくださいました。十字架と復活によって救いの業を完成されました。
キリストはキリスト教の創始者であるといえばそういうことも可能ですが、いわゆる宗教を創始するためにこの地上に来られたのではありません。天地万物を造られた神さまは、人間の幸福の道を備えてくださいました。しかし人間はそのように生きようとしませんでした。そのような人間に、あるべき道を与えようとしてこの地上に来てくださったまことの神さま、それがキリストなのです。人間的に見れば、当初の道を大きく逸脱したイスラエル宗教を本来の形に戻すために来てくださった、ともいえるでしょうか。イスラエル宗教といっても、それは世界の救いのための不変の真理なのですが。
神さまが人間を造られたとき、素晴らしく良いものとして造られました。しかし神さまから与えられた自由を乱用して、罪と滅びに生きることになってしまったのです。それを本来の道に戻すために、神さまご自身が人間となってこの地上に来てくださり、本来の人間、まことの人間として歩んで下さいました。そうして救いの道を開いてくださったのです。このキリストこそ、まことの神でありまことの人です。
このキリストこそただ一人のまことの人なのです。私たちは一見、人のようではありますが、罪と滅びの中に生きる限り「人でなし」なのです。
〔聖書の個所〕
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
(ヨハネ10章11節)
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
(ピリピ2章6~7節)
なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
(コロサイ1章19~20節)
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
(コロサイ2章9節)