カテゴリー: 新井奥邃

  • 「視聴言動能く忠信にして禮に違ふなくんば、必ず能く外誘の原因を看破して、之れに勝つを得べきなり。故に学者は小事を小事と侮るなく、忠信にして斯の禮を日用常行の間に講ずべきなり。」

    「視聴言動能く忠信にして禮に違ふなくんば、必ず能く外誘の原因を看破して、之れに勝つを得べきなり。故に学者は小事を小事と侮るなく、忠信にして斯の禮を日用常行の間に講ずべきなり。」

    新井奥邃、『聖言』、83

    「見ること、聴くこと、語ること、そして行動において、十分に忠義、信実をこめて礼儀に間違いがなければ、必ず十分に外からの誘惑の原因を見破り、これに勝利することができる。であるから学ぶ者は小さなことを小さなこととして侮ることなく、忠義と信実をこめてこのような礼儀を日々普段の行いの中において講義をしなければならない。」

     「禮」というのを「礼儀」としましたが、少し的を射ていない気がしています。「禮」には「儀式」という意味もあるようですから、もしかしたら聖書の教え、聖礼典、礼拝などを指しているのかもしれません。
     「学者」を「学ぶ者」としましたが、それは学者という言葉にはどうも「現実離れした人びと」というふうに少し揶揄するような響きを私が感じるからですが、本来学者とはこの世界の中にあって現実の最先端にいる人びとであると私は思っています。世間の人が「小さなこと」と見逃すことを見逃さず、こだわっていく「学者」によって、世界は真実な歩みをすることができます。学者の皆さん、頑張ってください。応援しています。あなたに世界の未来はかかっています。
     さて「視聴言動」において「忠義と信実」をこめて礼儀に生きているならば、そとからの誘惑、さまざまな問題を見抜くことができ、それに勝利することができるといいます。自分の中に不忠実、よこしまな心があると、外敵を見破ることができないのです。本当の敵は忠義と信実を尽くせない自分自身かもしれません。
     日頃の生活の中で、小さなことを大切にしながら、神さまの道を思いめぐらし、心を込めて生きようとするならば、この人生、大丈夫です。

    〔聖書の個所〕

    小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
    (ルカ16章10節)

    主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
    (ルカ19章17節)

    私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。
    (ピリピ1章9~10節)