「一毛功名に触るれば光彩闇を生ず。一念の嫉妬は心上流血を来たす。痛痕の癒ゆべからずと謂ふに非ざるも、亦頗る苦労を要す。夫れ清心者は神を見るべく、無欲なる者は美と遊ぶべし。」
新井奥邃、『聖言』、79
「わずかなことであってもてがらを立て名をあげるということに関わるならば、そのキラキラと輝く光が暗やみを生み出す。そうして心にふと生まれた嫉妬は、心に深い傷をつけていく。その痛々しい傷跡は、決して癒えることはないとまでは言えないけれども、大変な苦労をすることになる。心の聖い者は神を見るように、無欲な者は良いものとの関係において心身を解放して神さまにすべてのことを委ね、子どものように無心に生きるべきである。」
幼い時より人との比較や功績を生み出すことこそ善であると育てられていきます。目に見える功績を生み出すことは、決して悪いことではありませんが、それはコインの裏表のように、光があれば影があります。良い結果が生まれれば、生きる力が湧いてきます。それは悪い結果が生まれれば、生きる力を失うということでもあります。全戦全勝などという人生はほんの一握りの人たちのことでしょう。あるいはそんな人はいないのかもしれません。ですから人は常にこの影の部分におびえて生きることとなります。
しかしそういうことから解放されてこそ、本当に良い功績を生み出して生きることができるのだと思います。それにはまず、自分自身の全てを神さまにゆだねること、感謝することです。そこに功績に縛られない自由な人生があります。
〔聖書の個所〕
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
(マタイ6章1~4節)
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」
(ルカ17章10節)