「人若し十字架の聖死を経ざれば復活を得ず。其の死なき者は復活の道なければなり。此の如く主の来れるは、正に之が為なり。即ち十楽の為めに十苦に聖死せるなり。故に復活の道に與からんと欲する者は、当に十字架を負ふて主に従ふべし。」
新井奥邃、『聖言』、77
「人がもし十字架の聖なる死を経験しないならば復活を得ることはない。その死のない者は復活の道もないのである。このように主が来てくださったのは、まさにこのためである。すなわち十個の楽の為には、十個の苦しみという聖なる死をするのである。ゆえに復活の道に与かろうと願う者は、目当てとして十字架を負って主に従うべきである。」
主イエス・キリストの十字架と復活。これこそ聖書の中心です。これをはずしていかに聖書を学ぼうとしても学んだことになりません。逆にこれを学ぶならば、聖書の真髄を学んだことになります。
キリストはこの地に来てくださった最大の目的は十字架にかかるためでした。そしてその十字架によって死を経験したキリストを父なる神さまが復活させたということ。復活は死の後にやってくるということ・・・。私たちの人生もまたその通りです。
十字架とは死刑の道具でしたが、私たちの人生の苦しみや試練を指す言葉ともなりました。人生の苦しみや試練のない人はひとりもいません。何か事をなそうとするならば、より一層苦しみや試練を経験するものです。しかしその苦しみを避けていては何も実現できません。苦しみを経験するその先には必ず復活の時、祝福の時があるのです。
苦しみや試練を経験したいという人はあまりいないでしょう。また単純に苦しみを経験すればその先に喜びがあるとも言えない複雑な現実もあります。ポイントは十字架と負って主イエスさまに従うということです。自分勝手に十字架を負ってはいけません。十字架には負い方があるのです。イエスさまが負われたように負うのです。それは人生の道の果てしない学びかもしれません。
〔聖書の個所〕
それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
(マルコ8章34~36節)
それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
(マルコ16章5~6節)
こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」
(使徒26章22~23節)