「誠に基督に従はんと欲せば、当に其の十字架を負ふて従ふべきなり。然らば則ち吾人如何にして十字架を負ふべきや、曰く慾を去る、此れ十字架の一事なり。曰く怒を除く。此れ十字架の一事なり。曰く小子たらんと欲して、絶対柔順主命に奉動する、此れ十字架を負ふの実事なり。十字架の道広くして大なり。其の任固より重く且つ遠し、然りと雖も亦日用常行を離れて在るにあらず。」
新井奥邃、『聖言』、80
「真実にキリストに従おうと願うならば、まさにその十字架を負って従うべきである。そうであれば、私たちはどのようにして十字架を負うべきであろうか。「欲望から離れ去ること」と言おう、これは十字架によってなされる一つのことである。また「怒りを除き去ること」と言おう、これも十字架によってなされる一つのことである。さらに「子どものようになろうと願い、どんなことがあっても柔らかな心をもって主の命令に仕え行動すること」と言おう、これも十字架を負うことによってなされる大切なことである。十字架の道は広くて大きい。その任(十字架を負うこと)は本来は重たくまた遠いものである。しかしそうはいっても日ごと常に行うことから離れて存在するのものではない。」
キリストに従うということは、自分の十字架を負って生きるということです。十字架とは、苦しみであったり試練であったりということですが、自分の願う通りではない道に生きる、ということでもあります。欲望や怒りを捨てること、は十字架を負うことです。善いことであるか悪いことであるかは別として、自分の願い、欲望を捨てられないということは、十字架を負っていることではありません。従ってキリストに従っていることではありません。怒りをぶちまけるということも、それがたとえ義憤であったとしても、十字架を負っていることでもキリストに従っていることでもないのです。つねにやわらかい、優しい心でキリストのみ心を優先しようとすることは、十字架を負うことであり主に従うことです。これは普段の生活の中の日常的な事柄の中でこそ問われることです。
人前では欲望や怒りを隠すことができても、身近な人、家族の中ではなかなかそうはいきません。日々、瞬間、十字架を負うか、そうでないか、が問われています。
行住坐臥、常に十字架を負ってキリストに従うということです。
〔聖書の個所〕
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
(マタイ25章13節)
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
(ルカ9章23節)
・・見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。・・
(黙示録16章15節)