カテゴリー: 新井奥邃

  • 「吾人には師病多し。己未だ能く学ばざるに、先ず人に教へんと欲す。尤も卑劣なるは人の師たらんが為に、其為に学を為す者あり。又我意の奴となりて他の権内に干渉するを好む者あり。紛擾、又紛擾。其脳中胸中に絶えざる者、皆難病ならざるなし。」

    「吾人には師病多し。己未だ能く学ばざるに、先ず人に教へんと欲す。尤も卑劣なるは人の師たらんが為に、其為に学を為す者あり。又我意の奴となりて他の権内に干渉するを好む者あり。紛擾、又紛擾。其脳中胸中に絶えざる者、皆難病ならざるなし。」

    新井奥邃、『聖言』、105

    「われわれの中には先生病を患っている者が多い。自分自身まだよく学んでいないにもかかわらず、先に人に教えようと願う。もっとも卑劣なのは、他人の先生になるために、そのために学問を為そうとする者がいることである。また自分の考えをおし通そうとわがままの奴隷となって、他人の権限のなかに干渉することを好む者がいる。みだれにみだれ、もめにもめる。その考えの中や思いの中にこのような考えのなくならない者、みな難病にかかっているのである。」

     「師病」を「先生病」としました。人は教えられるよりも、教える方が好きなのです。
     今は忙しくてなかなか行けないのですが、昔はよく釣りに行きました。コイ釣りの方法の一つで、えさになるだんごに針をしのばせて投げ込んでおき、竿の先には鈴をつけてひたすら待つという釣りです。本などを読みながら待つのですが、これがなかなかリフレッシュによかったのです。ところが時々、釣りをしている後ろを通る人がいて「おにいちゃん、えさ何つこてる?」とか「もうちょっとむこうでないとかからへんで」とか言ってくるのです。こちらは静かに釣りを楽しんでいるのにやっかいなことです。しかたなしに応えたりすると、待ってましたとばかりに自分の釣り自慢を始められ、ながながと釣り講義を聞く破目に陥りました。人間は教えることが好きなのです。
     自己肯定感が低いのでしょうか。誰かに自分の知識をひけらかすことで、自分の賢さを確認したくなるのでしょうか。
     学問というのは、誰かに教えるためにすることではなく、ひたすら探求心をもって自分自身の変革のためにすることです。私のような牧師も、上記のようなことを忘れて、人に教えるために聖書を学んでしまっていることがあります。まず自分自身が教えられなければならないのです。そのうえで必要に駆られて教えるということが起こりうるのです。そこでも一方的に教えるというよりも、共に学ぶということのほうがふさわしいのだと思います。

    〔聖書の個所〕

    また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
    (マタイ23章10~12節)