カテゴリー: 新井奥邃

  • 「家累を以て苦歎する者あり。然れども天下豈に家累なからんや。物は人の之に接する如何に在るなり。亦天地人あり。亦皆家累ならずや。故に人の憂ふる所は家累に非ざるなり。其の私の奴たるに在り。有神無我の道に興らざるに在るのみ。」

    「家累を以て苦歎する者あり。然れども天下豈に家累なからんや。物は人の之に接する如何に在るなり。亦天地人あり。亦皆家累ならずや。故に人の憂ふる所は家累に非ざるなり。其の私の奴たるに在り。有神無我の道に興らざるに在るのみ。」

    新井奥邃、『聖言』、107

    「家族や家事上のわずらいに対して苦しみ嘆く人がいる。しかし天の下に家族や家事上のわずらいがないということがあろうか。物事は人がこれにどのように接するかにあるのだ。また天と地と人がいる。またみな家族なのではないだろうか。それゆえに人が憂えているところは家族ではなくなっているのだ。その私自身が奴隷となっていることが原因である。神を信じ自分を無にする道には起こって来ないということが存在しているのみである。」

     「家累」を「家族や家事上のわずらい」としましたが「家系」とするのかもしれません。あまり自信がありません。
     家族だからこそ、そこに交流があり悩みが生まれます。悩みがあるということは家族だからです。要は接し方です。相手が悪いとして接するならば何の解決も起こりません。自分を反省し、自分を変革しようとするところに新しい祝福の道が開かれます。
     神を信じるということは、自分が自分の奴隷であるということから自由にされること、解放されることです。そうであれば、自分を自由に変革することができるのです。自分に固執するのは神さまを信じていないからです。
     身近な存在であるからこそ起こってくる問題。それは決して異常なことではなく当然のことですから、神さまから知恵をいただき謙遜になって接していくとき、新しい道が開かれていくでしょう。

    〔聖書の個所〕

    イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
    (ルカ10章26~28節)

    もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。
    (第1テモテ5章8節)