カテゴリー: 新井奥邃

  • 「日々十字架の苦に死し、夜々十字架の死に苦しむ。斯の事や言はんと欲して能はず。言ふべからざるなり。真人の神情は特に二重にして動く。斯の苦や愛の由りて生まるる所。斯の愛の為に此の苦に堪ゆ。斯の死や生の由りて新たに昇る所。斯の栄の為に此の辱を取る。此の苦なければ斯の愛なし。此の辱なければ斯の栄なし。嗚呼斯の道や、温にして生道の下に熱し、黙して万怒の上に張る。知るべくして語るべからず。」

    「日々十字架の苦に死し、夜々十字架の死に苦しむ。斯の事や言はんと欲して能はず。言ふべからざるなり。真人の神情は特に二重にして動く。斯の苦や愛の由りて生まるる所。斯の愛の為に此の苦に堪ゆ。斯の死や生の由りて新たに昇る所。斯の栄の為に此の辱を取る。此の苦なければ斯の愛なし。此の辱なければ斯の栄なし。嗚呼斯の道や、温にして生道の下に熱し、黙して万怒の上に張る。知るべくして語るべからず。」

    新井奥邃、『聖言』、108

    「日々十字架の苦しみを経験しそれによって死に、夜な夜な十字架の死によいて苦しむ。このようなことは言葉に出そうと願ってもできない。語るべきではない。まことの人の神の心は特別に二重になって動く。この苦しみは愛を理由として生れる所である。この愛の為にこの苦しみに堪える。この死は生を理由として新しく昇る所である。この栄の為にこの屈辱の道を選ぶ。この苦しみがないならば、そのような愛はない。この屈辱がないならば、そのような栄光はない。ああその道は、あたたかく生きる道の下にあって熱く燃え、沈黙して多くの怒りの上に伸び広がる。知ることであって語るべきことではない。」

     人生には苦しみがあります。その苦しみはキリストが経験された十字架の苦しみと重なり、それによって小さな死を経験します。この小さな死を経験して、やがての死に備えていきます。小さな死は、人生の最期に待っている死の備えです。
     この小さな死は、私たちにあらためて愛と栄光を与えてくれます。苦しみを通して愛を知るのです。苦しみを経験したことのない人は、隣人の苦しみを理解することが難しいでしょう。また屈辱的な経験は、栄光の時をもたらしてくれます。
     このようなことは、苦しみを経験した人が、その経験を通して知ることであって、他人がまことしやかに語ることではありません。他人にできることはただ寄り添うことだけでしょう。また寄り添うことこそふさわしいことでしょう。

    〔聖書の個所〕

    あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
    (第1コリント10章13節)

    神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
    (第2コリント1章4節)

    信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
    (第1ペテロ1章7節)