「夫れ奇蹟の基督に於けるや、法なり。本と奇蹟を以て名づくるの要なし。此れ世人の目に対して斯く呼ばる。人の私智は神智に反す。己が能くせざる所を思えば皆驚く、皆怪しむ。法の光なればなり。基督の奇蹟は神の法なり。曽て疑ふべきものあらず。」
新井奥邃、『聖言』、104
「奇跡はキリストにおいては、真理であり道理である。本来、奇跡と名付ける必要はない。世の人が見る時に奇跡と呼ばれるのである。人間の知恵は、神の知恵に反する。自分が理解できないことを見聞きすると皆驚く、皆怪しむ。それが真理の光だからである。キリストの奇跡は、神の真理である。決して疑わなければならないものではない。」
聖書を読むとさまざまな奇跡(しるし)が記されています。水の上を歩かれるイエスさま、病人を癒し、死人を生きかえらせる奇跡、などなど。イエスさまの教え、例えば、隣人を愛しなさい、ということはよく理解できるけれども、水の上を歩かれるとか、処女降誕とか、復活とかといった奇跡は信じられない、なぜそんなことが書いてあるのか、それさえなければ聖書は分かりやすいのだが、などという声も聞こえます。
しかしこの奇跡こそ、そこに真理が語られている大切なものです。奇跡はキリストのすごさ(?)を世に示すためになされたのではありません。また聖書に記されているのではありません。奇跡に込められた真理を伝えたかったからです。
聖書の中の奇跡の個所を読まれるときには、その「意味」を考えてみましょう。
たとえば処女降誕。イエスさまは乙女マリヤから生れたと聖書は大胆に記します。私たちの常識からすれば乙女が懐妊するはずがありません。聖書の書かれた時代は、科学的な知識が少なかったのでそのようなことが書かれたのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。二千年昔でも処女が懐妊するなどということはまったく考えられないことでした。しかし聖書は大胆に処女降誕を記すのです。それは無知ではなく、そこに込められた真理があるからです。
その真理とは何でしょうか。
それは神さまはどこからやって来られるのか、暗やみへの光はどこから差し込んでくるのか、諸問題に息づまる私たちに解決の手はどこからさし延ばされるのか、という問題です。聖書は、それらは人間の経験や知恵の中からやってくるのではなく、その外からやってくるのだということを伝えようとしているのです。処女降誕などというおおよそ人間には理解のおよばないところから神さまはやって来てくださる、つまり私たちの経験ではどうすることもできないような事態の中にも、その外側から神さまは解決のみ手を宣べてくださる、神さまというお方はそういう方なのだ、と信仰をもって生きる道を私たちに示してくれたのです。
ですから処女降誕を信じるということは、八方ふさがりの中でも希望をもって生きる人生を私たちにもたらしてくれるのです。
このように一つひとつの奇跡に込められた愛の神さまのみ心を知るならば、奇跡は決して不思議で疑うべきものではなく、むしろ私たちに喜びと感謝をもたらしてくれるでしょう。
〔聖書の個所〕
この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
(ヨハネ20章30~31節)