「基督の食は生命の力なり。之を食う者は勢力衷心より興発す。是れ基督の分与せらるる生命に係る。誠に能く之を受くれば、主の天父と一なるを体知するなり。之を知るに於て、又能く己の情状を知る。是れ永生の道にして、主の賜る所。」
新井奥邃、『聖言』、103
「『基督の食』はいのちの根源であり力である。これを食する者は、勢力が心の底からあふれ出てくる。これはキリストが分け与えられたいのちに関係している。心の底から信仰をもってこれを受けるならば、天の父なる神さまと一つになることをからだをもって知ることができる。これを知ることによって、また自分自身の実際のようすをよく知ることができる。これこそ永遠のいのちに生きる道であり、主が賜物として与えてくださることである。」
前半は「聖言39」をご参照ください。
「之を知るに於て・・・」が「聖言39」に付け加えられています。神さまを信じ、神さまと一つになるということは、忘我の境地に陥ってしまって自分自身や自分の置かれた状況が分からなくなってしまう、ということとは全く違うものです。そういう宗教もこの世にはありますが、聖書の語る信仰はそうではなく、むしろ自分自身を明らかに知ることがキリスト教信仰のもたらすものです。
私たちは自分のことを自分が一番よく知っていると思っていますが、果たしてそうでしょうか。自分の顔でさえ鏡を通してでしか見ることができないのです。自分の声でさえ内耳から響く声を重ねて聞いているのであって、実際に他人の耳にどのように響いているかは録音を聴いて初めて知るのです。自分の心はというと、心こそ自分ではどうすることもできないものでしょう。
人間は神さまの前に立ってはじめて自分を知ることができます。まっすぐな鏡の前に立つようなものです。まっすぐな鏡の前に立つと、とたんに自分の醜さや足りなさが目につきます。そこで、神さまの前に立つことによって自分を知ることにはもう一つの大切な事柄があることを知らなければなりません。その大切な事柄とは、神さまが私のことを愛していてくださるということです。それを知るのです。自分は罪人であるけれども、同時に神さまの目には大切な存在なのだということを知るのです。
そうして初めて自分を正しく知ることができます。また他者も同様です。
〔聖書の個所〕
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
(イザヤ43章4節)
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
(ヨハネ3章23~24節)