カテゴリー: 新井奥邃

  • 「十字架とは何ぞや、主の死生なり。其声に曰く、『嗚呼我が師よ、爾何ぞ我を遺てたるや』と。是れ十字架の死生なり。即ち我が主の在しし所、至誠の大苦なり。之れ奮振昇天の基礎たり。吾人小子等、亦各其程度に従つて、此の死生の実地を践み、之を体し之を貫いて以て昇るべし。然らずんば如何に書を読み学を講ずるも、断じて基督を知る能はざるなり。」

    「十字架とは何ぞや、主の死生なり。其声に曰く、『嗚呼我が師よ、爾何ぞ我を遺てたるや』と。是れ十字架の死生なり。即ち我が主の在しし所、至誠の大苦なり。之れ奮振昇天の基礎たり。吾人小子等、亦各其程度に従つて、此の死生の実地を践み、之を体し之を貫いて以て昇るべし。然らずんば如何に書を読み学を講ずるも、断じて基督を知る能はざるなり。」

    新井奥邃、『聖言』、122

    「十字架とはなんであるのか、それは主の死と生である。その声が語るに『ああ、わが師よ、あなたはなぜ私をすてられたのか』と。これこそ十字架の死と生である。すなわち私の主がおられるところは、極めて真実に大きな苦しみである。これこそあの力強い昇天の基礎である。私たち神の子である者は、またそれぞれに応じて、この死と生を実際の生活の中で経験し、これを体得し、これを貫いて、そうしてのちに昇るべきである。そでなければいくら本を読み学門を講じたとしても、決してキリストを知ることができない。」

     イエスさまが、十字架上で語られた言葉が七つあると聖書は語ります。そのうちの一つがこの「わが神、わが神、なぜわたしをお捨てになられたのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)です。
     十字架の苦しみは大きく三つあると思います。一つは十字架につけられることによる肉体的な苦しみ、もう一つは、弟子たちに見捨てられ人々からあざけられる精神的な苦しみ、そして三つめが、神さまから見捨てられる霊的な苦しみです。この三つの究極的な苦しみを経験された後に、復活そして昇天(天に昇る)ということが続きます。
     苦しみの後に喜びが続くのです。あるいは苦しみの後であるからこそ、その喜びに大きな価値があるのです。そうしてイエスさまご自身を知る者となっていきます。
     好んで苦しみを経験する必要はまったくありませんが、人生には好まなくても既にさまざまな苦しみが与えられています。その向こうに必ず喜びの時があることを信じましょう。そして苦しみを経験した者でなければ味わい知ることのできない喜びの時があることを信じましょう。
     そうして人間は神さまを知る者にしていただけるのです。

    〔聖書の個所〕

    愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。(第1ペテロ4章12~13節)