神のこの不正な裁判官と同じように執拗な祈りには耳を傾けざるを得なくなるなどと言っておられるのではない。「まして神は」と言われる。当然のこととして、神は神の民の祈りを聴かれる。ただひとつ、主は問われる。「選ばれた人たち」は、なるほど祈っているであろう。だが、その祈りに応えて主ご自身が再び来られたとき、「果たして地上に信仰を見いだすであろうか」。主イエスは言われる。信仰なき祈りがあるのである。不正な裁判官さえ裁き得るとやもめは信じた。正義の裁きはあると信じた。だが、祈りは神の真実の審きの勝利を信じてなされるべきものであるのに、その信仰があるかと問われるのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、335頁
2020年11月12日(木)
聖書の語る信仰とは、限りなく信頼に違いということです。祈りも労働組合の経営陣への要求のようなことではなく、子が父に願うように信頼と愛の発露です。どうもその辺が分かっていないのではないかと思われるような祈りをしてしまっているように自戒します。
「それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』」(ルカ18・6-8)