父が引き寄せてくださらなければ

ツヴィングリの後継者、チューリッヒの牧師ブリンガーが遺書のつもりで書いたと言われる第二スイス信条は、その初めに「神の言葉の説教は神の言葉である」ということを丁寧に説いて、こう言った。「もしその説教者たちが、悪人であり、罪人であったとしても、(その説教者が語った)神の言葉は、真実であり、善であることに変わりはない」。もちろん、だから説教者はどんな生活をしていてもかまわない、そんなことに変わりはなく、語る説教は神の言葉であり続ける、というようなことではない。ブリンガーは、むしろ、牧師のあり方については厳しかった。しかし、説教者がどれほどすぐれた雄弁な言葉を語っても、それが決定的なことではない。「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」のである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、249頁

2020年8月22日(土)

父なる神さまが引き寄せてくださらなければ、だれひとりイエスさまのところに来ることはできない、のです。それは逆に、父なる神さまが引き寄せてくださるならば、どういう事態の中にあっても、必ずイエスさまのところに来ることができる、ということでもあります。

礼拝で語られる言葉が、会衆の心に届き、その会衆を神の民としてみことばに生きる者となるということは、神さまのわざである、ということでしょう。

その視点を、説教者も会衆も信じるところに真実の礼拝がささげられるということなのだと思います。

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」(ヨハネ6・44,45)