今、朝食を取れば、この次のいのちの糧、昼食のために祈る。それは一瞬先の肉体のいのちもまた父なる神のみ手の中にあることを意味する。それは死をもみ手から受けるこころである。ヨハネによる福音書第六章は五千人の男たちにパンと魚を配ってくださった主イエスを追いかけて、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と懇願したことを伝えている(34節)。あるひとが、これは主の祈りがさかさまになっていると言っている。自分の全存在を神の恵みの手に委ねて、信頼に生きるのではなく、いつもパンを手にし得る保証をしてくれる神を求めているだけだと言うのである。私たち自身が、主から教えていただいた祈りの言葉を、主のみこころに反し、主を十字架に追いやったこころで唱えてしまう罪を犯しかねないのである。ここで過ちを犯したのは神の民であった。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、248頁
2020年8月21日(金)
主イエスさまが教えてくださった主の祈りのなかの私たちのための祈りの第一番目の祈りが、この日常の食事のための祈りでした。
この祈りと
「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と五千人の給食のあとで人びとが求めた祈りと、よく似たことばであるけれども、全く逆になっている、といいます。
主の祈りで教えてくださった祈りの心は、主に委ねる、主に信頼するということです。それに対して、五千人の給食の後に続く祈りは、どこまでの自分中心です。そしてこの自分中心の祈りが、異邦人ではなく、神の民イスラエルが祈られている、というのです。
教会は祈りの群れです。しかしその祈りが、主の祈りで教えてくださった、信頼の祈りになっているのか、それとも自分たちの願望を実現するための祈りとなってしまっているのか、つねに吟味されなければならないのだと思います。
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6・11)