自分の教師であったヤコブが、第三章に述べるこの警告は厳しく、真剣である。私たちは皆、思い当たる。何よりも、自分の口から出る呪いを制御できないのである。それは自分が正しいと確信しているからではないか。神への賛美が存在と化していないからではないか。呪いを求める自分を制御できないために堕ちる不義の世界から、既に自由にされていることを忘れているからではないか。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、247頁
2020年8月20日(木)
牧師になってみてはじめて分かることの一つに、つねに審きの座に立たされているという意識があります。自分の語る言葉、特に説教において語る言葉が、どのように人びとに届いているか、響いているか、あるいは届いていないか、響いていないか、と、心にそのような思いがぐるぐると回るのです。毎週日曜日に、あるいは週日の集会に、さらには信徒の皆さんとの何気ない会話の中に、語った言葉が果たして相手を生かす言葉になったであろうか、それとも殺してしまう言葉になってしまったのではないだろうか、と。牧師である限りこのような状態から解放されることはないのかもしれません。会衆の一人として、今日の説教は良かった、今日のはいまいちだった、もう少し面白く分かりやすい話をしてくれ、などなどと、時に居眠りながら、時に腕を組みながら、そんなことであるならばどんなに楽ちんだろうかと思うのです。なんで自分は牧師になったのだろうか、と常々思うのです。
しかしある意味でこのような思いから解放されてしまうことは牧師としてはふさわしくないのかもしれません。人間である以上、間違いがあります。ですから間違いのごとに、神さまからへりくだることを教えられます。牧師はだれよりもへりくだることを知る者でなければならないのだと思います。自らの足りなさをさまざまな形で教えられることは、そのときは心の危機に襲われますが、へりくだりの道を選択するように招かれているのだと思います。そうしてへりくだりの道を選択すると、そこには何とも言えない自由があります。
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。・・・しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」(ヤコブ3・1~)