受洗の頃にひたすら読み続けたのは、カール・バルトの『われ信ず』(クレドー)であった。そこで、自分の腹を神とする偶像礼拝の正体をいやと言うほど教えられた。だが、パウロが、自分の腹を神としない者は国籍を天に得るのであり、主の来臨を待つ者となる語っていることに改めて気づいた。これは正直に言って予期しない自己発見であった。妙な言い方であるが、半分、日本人でなくなったと思った。日本の勝利を望む少年でありながら得た、この意識のために、突然自分は大人になったとも思ったのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、250頁
2020年8月23日(日)
十字架の敵として歩むとは、欲望を神とする偶像礼拝に生きることです。地上のことだけを考えることです。それに対して、十字架の道を歩むこと、すなわち欲望を神とする生き方から自由になること、その道は国籍を天に得る生き方であり、主イエスさまの来臨を待つ生き方です。キリスト者になるということは、この国籍を天に得る者となったということです。
「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3・17-20)