聖書の神は激しい行動の神、独り子を十字架で殺すまでに激しい神であるとし、その神が顔をこちらに向け、それどころか自分の上に沈み込んできてくださるほどに憐れんでくださる、だから、私たちは耐えて待つことができるのだと説いている。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、142頁
2020年5月11日(月)
私たちが、自らをとりまくさまざまな苦しみの中で沈み込んでしまう時、得体のしれない暗やみの中に沈み込んでしまうのではなく、沈み込むさらにその下に神さまの御手があるのです。また私たちが、自らの罪と恥の中に沈み込んでしまう時も、奈落の底に沈み込んでしまうのではなく、そこにも神さまの御手があるのです。
ともに沈み込んでくださる神さまがおられるということはそういうことでしょう。私たちは安心して沈み込むことができるのです。あるいは沈み込むからこそ、そこで神さまにお出会いできるのです。
「苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを/決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても/再び心を励まし、なお待ち望む。/主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。/それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。/主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。/主の救いを黙して待てば、幸いを得る。」(哀歌3・19-26)