神の怒り、その審きの厳しさと、その愛の深さを知ることとはひとつのこと

18世紀のアメリカの神学者、説教者、ジョナサン・エドワーズは、今もなお忘れられることのないひとである。・・・「キリストから離れている者は地獄の上に宙づりになている」という、その説教のなかの一句は特に知られている。このような一種の脅迫を伴うかとも聴ける言葉は、あまりにも厳しすぎてやさしさを求める現代人には聞きやすくないかもしれない。しかし、このような言葉が聞きやすい時代、そのような人間がいたこともないであろう。いつでも、誰にとっても、聞きやすくはない。・・・神の怒り、その審きの厳しさと、その愛の深さを知ることとはひとつのことである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、143頁

2020年5月12日(火)

愛の深さを知るということは、審きの厳しさを知るといこととひとつである、といいます。審きの厳しさを知らないところでの愛は、本当の愛ではない、人を生かす愛ではない、むしろ人を滅ぼす甘え、あるいは滅びに向かう者を見捨てる無関心ということなのでしょう。愛の反対は憎しみではなく無関心である、とマザー・テレサはいったとか。耳障りの良い言葉ではなく、真実に人を生かす言葉に耳を傾け、また自らも語りたいと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・36)

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3・36)