「主よ、もしここにいてくださいましたら・・・」(21節)・・・「主よ、もしここにいてくださいましたら・・・」(32節)・・・私はこの言葉を読みながら、よく泣いた。・・・その愚かな悲しみの場所にも来てくださる主のいのちに慰められるのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、122頁
2020年4月23日(木)
主がともにいてくださったなら大丈夫だったのに、と彼女たちはいいました。しかしともにいてくださらなかった、ともにいてくださらなかったので、その全能の力がおよばなかった、と。
しかしともにいなかったことは、あなたがたにとってよかったのだ、とイエスさまは言われます(14,15)。それはあなたがたが信じるようになるためである、と言われました。イエスさまが居合わせてくださって御業がなされるところを見て「信じる」ということと、このラザロの甦りにおいてイエスさまが為してくださったことによって「信じる」ということとは、その中身が違うということでしょう。私たちに必要なのは、この後者の「信じる」という信仰です。おおよそこの世の宗教は前者の「信じる」を語ります。しかしキリスト教はこの後者の「信じる」を語るのです。
「マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11・21)
「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。」(ヨハネ11:32)
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11:25,26)