人びとを絶望の涙にくれさせる死の力、墓の存在、そこにある闇の力に対して憤っておられたのである。だがまさにそのように死に向かって立ちはだかり、「わたしはいのちである」と言われた方の涙もここに流される。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、123頁
2020年4月24日(金)
愛するともラザロの死。そしてその愛するラザロを失った悲しみに暮れるマルタ、マリア。その死と悲しみに向き合われたイエスさまは、霊に憤りを覚え、心を騒がせ、涙を流されました。
イエスさまは、このあとラザロを生き返らせることをご存知です。だれよりもご存じなのです。そのイエスさまが、憤り、涙を流されたのです。
キリスト者の死は永遠のいのちへの扉の開く時なので、キリスト教のお葬式に悲しみは不釣り合いであるかのように思うことがあるとすれば、このイエスさまの憤りや涙の意味を知らないのです。
イエスさまは死の悲しみや絶望をだれよりもご存知でした。だからこそイエスさまこそ真実に慰めることのできるお方なのです。
「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された。」(ヨハネ11・33-35)