罪を悔改めて神のもとに帰る義

口先よりも実行することが大切だというようなことではない。ここで問われているのは、洗礼者ヨハネの義を求める声に応じたのは誰かということである。ヨハネが求めた義、それは罪を悔改めて神のもとに帰る義(ただ)しさであった。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、93頁

2020年3月26日(木)

自分の生き方の方向を変えるということが悔改めるということです。このたとえ話(マタイ21・28-32)では、口先で言ったことと実際に行った行動との違いから、実行の大切さを説くことがあるのかもしれませんが、それは聖書の誤解であるということです。兄の方はぶどう園で働くことが嫌だったのですが、その自分の考えの方向、生き方の方向を変えました。一方弟の方は、もともと嫌だったのですが、お父さんの手前、承知してしまいます。しかしその生き方の方向を変えなかったので、出かけなかったのです。

徴税人や娼婦たちは、自分の生き方の方向を変えたのです。それは決して聖い生き方がその時から始まったというわけではありません。しかし少なくとも自分の義に頼る生き方からは方向を変えました。それに対して「あなたたち」すなわち「祭司長たちや、律法学者たち」(21・15)はどこまでも自分の義にたより、自分の生きる方向性を変えなかったのです。たしかに彼らには聖い生き方があったかもしれませんが、神さまを信じること、愛することよりも、自分への執着があったのだと思います。

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタイ21・28-32)