ただ憐れみによって生かされる罪人としての自覚

長いキリストの教会の歴史において、そのからだに染み込んでいるはずの、ただ憐れみによって生かされる罪人としての自覚が、まだ私たちには十分わかってはいないのではなかろうかと。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、92頁

2020年3月25日(水)

オリエンス研究所発行の『ともにささげるミサ―ミサ式次第 会衆用―改訂版』によると礼拝のプログラムとして最初に「開祭」という項目があり、その中は1入祭の歌、2あいさつ、3回心、4あわれみの賛歌、5栄光の賛歌、6集会祈願、となっています。この回心とあわれみの賛歌の内容の第一形式は以下の通りです。

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3 回心

(司祭)皆さん、神聖な祭りを祝うまえに、あたしたちの犯した罪を認めましょう。

(司祭)全能の神と、

(会衆)兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。

(司祭)全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。

(会衆)アーメン。

4 あわれみの賛歌

(先唱)主よ、あわれみたまえ。

(会衆)主よ、あわれみたまえ。

(先唱)キリスト、あわれみたまえ。

(会衆)キリスト、あわれみたまえ。

(先唱)主よ、あわれみたまえ。

(会衆)主よ、あわれみたまえ。

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以前にあるかたが、キリスト教会ではどうしてあれほどまでに憐れんでくださいと唱えるのか、と聞きに来られたことがありました。私はプロテスタントなので、カトリック教会のミサの意味を十分に分かっているわけではないが、私たちの犯した罪はそれほどまでに大きく深いものなのだと聖書は教えています、というようなことを答えたように思います。

礼拝の途中で居眠っていたり、自分の好き勝手な礼拝を実現しようとしたり、途中で出入りしたりと、やや神聖さに欠けるプロテスタントの礼拝では、すこしこの意味が分かりずらいのかもしれません。

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(ルカ18・13)