義に生かされることは戦いである。しかも、肢体、五体を含む、全存在にかかわる。洗礼を受けてキリストとひとつとなった者は、手足の動かし方まで違う。体まで、甦りのいのちにあずかり、恵みのもとにある。献身とは特別なことではない。・・・キリスト者は皆献身している。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、61頁
2020年2月24日(月)
キリスト者は、みな自分自身を、その五体を義の道具として神さまに献げているものです。洗礼を受けて新しくされたということは、そのような生き方となります。それが救われるということでしょう。
「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」(ローマ6・13-14)