聖書は祈りの教科書である。・・・そのまま読んで私たちの祈りとしてよいものがたくさんあるが、なかでも、このダニエルの祈りは日々の祈りとしてもよいものであり、また主の日の礼拝の悔い改めの祈りの手本ともなるものである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、60頁
2020年2月23日(日)
ふつう神仏への祈りは、祈る者の真実さ、信仰深さ、修行などによって取得した神通力、霊力などによって、聞かれかなえられるとされているのだと思います。それに対して聖書が私たちに教える祈りは「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐みのゆえに」成り立つ祈りです。おそらく仏教でも浄土宗、浄土真宗にはそのような考え方があるのかもしれません。
これがキリスト教信仰の祈りのあり方であり、また信仰のあり方でもあるのですから、これを離れてしまうと、すなわち祈る者の確かさによる祈りや信仰であるとするならば、もはやキリスト教信仰ではないということでしょう。
私たちはただ神さまの確かさによって祈りに招かれていることを喜んでいます。
「神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」(ダニエル9・18)