神に手を取っていただかないと立っていることもできない

改革者カルヴァンは、その妻を失ったとき・・・。・・・悲しみで膝がしらが、がくがくしているのである。しばしば剛直のひととされるカルヴァンの膝が震えている。神に手を取っていただかないと立っていることもできない。だが、自分の膝を抑えてくださる神のみ手をカルヴァンは知っている。何という慰めであろう。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、59頁

2020年2月22日(土)

C・S・ルイスは、奥さまを失った悲しみの中で綴られたその著『悲しみをみつめて』の冒頭で

「だれひとり、悲しみがこんなにも怖れに似たものだとは語ってくれなかった。わたしは怖れているわけではない。だが、その感じは怖れに似ている。あの同じ肺腑のおののき、あの同じやすらぎのなさ、あのあくび。わたしはそれをかみころしつづける。」(C・S・ルイス、『悲しみをみつめて』、新教出版社、1976年4月30日発行、5頁)

と記しています。

この「怖れに似ている」悲しみは、同じく妻を失った悲しみの中で膝がふるえているカルヴァンのこころと重なるところがあるのではないか、と思います。

そして私たちもみな愛する者を失うということは、そのような中に置かれるということなのでしょう。神さまはそのような私たちを支え、守ってくださいます。

「主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。/主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。/主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。」(詩編34・18-21)