信頼は何によって造られるのか

矢内原先生は、自分について語る。自分を慕って多くのひとが集まる。ひとに愛され、信頼されるのはありがたいが、私がキリストを信じているという一点における信頼であってもらいたい。私が罪を犯さない、いつも正しい人間であるといことだけで私を信用しているだけであるならば、今すぐ、その信用をやめてほしい。そうでないと、私に躓くことになる。・・・信頼なくしては、共に生きることはできない。だが信頼は何によって造られるのか。私たちがキリストなくして生きていかれないこと、キリストの前で悔い改めることを知っている罪人であるということ、そのこと以外の何であろうか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、55頁

2020年2月18日(火)

「主によって」「キリストによって」。自分を土台とするならば、それは砂の上に建てる家のような人生となってしまいます。しかしキリストを土台とするならば、岩の上に建つ家のように、確かな人生となります。

「そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。」(フィレモン20)