悔い改めることを求めた

ドイツ西北部にベーテルという巨大な福祉施設がある。かつてフリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィングという貴族出身の牧師がいた。三〇歳半ばを過ぎたころ、一三日の間に四人の子どもを失った。・・・それまで恵まれた歩みをしてきたこの牧師は、初めてひとの痛みがわかるようになった。そして当時難病であったてんかん患者のために小さな家でみとりの生活を始めた。・・・その息子が語っている回想記によると、父は、病む者に愛を注ぎ、ときに抱擁さえして、その肉体をいたわったが、同時に痛みを負っている人間はわがままの罪を犯すと常に言い、みとられている人びとに、その罪に気づき、悔い改めることを求めた。この父自身が、自分またわがままであり、同じ罪を犯す者であることを知っていたからであると説明している。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、54頁

2020年2月17日(月)

人生の苦しみの原因はさまざまですし、また分からないということが実情であると思います。しかし苦しみの意味があるとすれば、それは隣人の痛みを知るためである、と言えるのではないでしょうか。ただ苦しみによってかえってひねくれてしまうということも現実ですので、苦しみを神さまからの試練であると受け止められるかどうかが大切なことなのだと思います。

しかし人の痛みがわかるからといって苦しみの中にある人の罪を見逃さなければならないのかというとそうではないのだと思います。無理もないことなのかもしれませんが、悔い改めを求めることは、本当の愛なのだと思います。

「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」(ヨブ42・5)

「シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。」(イザヤ1・27)