自分の至らなさ、不完全さ、中途半端な現実に固執することは、それが自分の<ほんね>であり、パウロのいうことは<たてまえ>でしかないということにはならない。パウロは、主イエス・キリストにおける神の<ほんね>を語っている。洗礼を受けた私たちが罪に生きることは不可能なのである。神の<ほんね>に根ざしてこそ、<ほんね>という言葉でなお自分を正当化する、開き直った自分の罪の現実と向かい合うことができる。罪に対して私たちは、もう死んでいるのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、56頁
2020年2月19日(水)
むかし少年ジャンプに掲載されていたマンガに「おまえは、もう死んでいる」と主人公が語る場面がありました。自分が死んでいることに気がつかないという状況。それほどにすばやくあざやかな攻撃が描かれていたのだと思います。
主イエスさまを信じた者は、自分がどのように自覚しようが、神さまの目から見れば「罪に対して私たちは、もう死んでいる」のです。
それは水中の生物が陸上での生活に移動したようなものです。鰓呼吸から肺呼吸に変化し、水の中での生活が不可能なからだに変化しているにもかかわらず、水中での生活を始めてしまうならば、とたんに息苦しくなり節々の細胞は死んでいくでしょう。それと同じようにイエスさまを信じたときから、罪の中に生きることは不可能なように変化しているにもかかわらず、なお罪の中に開き直ってしまうならば、息苦しくなり生きて行くことができないのではないでしょうか。
たしかに私に視点を置くだけならば、罪に死んでいると言われてもなお罪の中に生きてしまう現実があるような気もします。しかしイエスさまを信じたということは、視点をイエスさまに置く生き方を始めたということです。視点をイエスさまに置くならば、もはや自分は罪に固執することが異常なこと、あるいは滑稽なことではないかと思います。
ガラテヤ2章16節に以下のような言葉があります。
「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」(新共同訳)
「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」(新改訳2017)
「イエス・キリストへの信仰によって」「イエス・キリストを信じることによって」ということから、私たちの信じる力によって義とされるように読めるところですが、新しい共同訳では
「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」とあり、私たちが義とされるのは私たちの信じる力ではなく、ひたすらイエスさまのご真実、ご誠実による、と原文に忠実に訳されています。
律法ではなく信仰によるというのがキリスト教の語るところですが、律法主義における律法がただ信仰という名に変わっただけで、結局のところ私たちの側の活動が救いの土台であるとするならば、聖書の語る信仰ではないということでしょう。
私の現実は確かに罪の中にあると言わざるを得ないようなものかもしれませんが、視点をイエスさまに置き、ひたすらイエスさま、イエスさまをイエスさまを仰ぎながら、義とされていることを感謝して生きていきたいと思います。
「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」(ローマ6.1-2)