単純な悪から複合的な善をつくりだすことが神にとって可能だからといって、悪を行なう人々が罪を問われないということはありません――神の慈悲のゆえに救われることはあるとしても。この区別は中心的なものです。躓きは必然的に訪れますが、「それをきたらせる者はわざわいである」と聖書にも記されています。
罪はあふれるばかりの恵みをもたらしますが、だからといってそれを罪を犯しつづける口実としてはなりません。十字架の刑はあらゆる歴史的出来事のうちで、最も忌わしいと同時に、最もすばらしい出来事です。しかしユダの役割はあくまでも悪しきものなのです。これはまず、他人の苦しみという問題にあてはめて考えることができるでしょう。
心のやさしい人は隣人の幸福のために努力し、このことにおいて神の御心を行い、神から下る単純な善に意識的に協力します。一方、残忍な人間は、隣人を虐げることによって単純な悪を行います。しかしこうした悪を行うにあたって、この悪人は神によって知らず知らず、彼自身の承認なしに用いられて複合的な善をつくりだしているのです。すなわち、愛の人は子として父なる神に仕え、残忍な人は道具として神に用いられます。
というのは、人がいかに行動しようとも神の目的が実現されることは確実だからです。しかしあなた自身にとっては、ユダのように仕えるか、それともヨハネのように仕えるかはたいへんな違いでしょう。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、502-503頁
2019年12月27日(金)
イエスさまを信じることによって、私たちは一切の罪から救われ永遠の命をいただく者とされました。罪の赦しと永遠の命は、私たちの行いに一切かかわることなく、ただ信仰によって与えられます。
しかし祝福された人生を歩もうとするならば、この神さまに愛を傾けて、神さまを賛美して生きる必要があります。それは神さまの子として生きるということでしょう。
すべては神さまの御手の中にあります。しかし子として生きることなくして、救われた喜びを味わい知ることはないでしょう。
「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマ6・15-16)