危険な目に会っている人の「助けてくれ!」という必死の叫び声が聞こえたとします。あなたは同時に二つの気持を感ずるでしょう。一つはその人を助けたいという気持(群本能によるもの)、もう一つは危険から遠ざかっていたいという気持(自己保存の本能によるもの)です。
けれどもそれら二つの衝動とはべつに、あなたのうちにもう一つ、逃げようという衝動を抑えて、危険に陥っている人を助けようという衝動に従うべきだという気持が動くのを、あなたは感ずることでしょう。
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二つのうちの強いほうが勝つことは明らかです。けれども私たちが道徳の法則を強く意識している瞬間には、道徳の法則はふつう私たちに、弱いほうの本能の味方をせよと命じているように感じられるものです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、386-387頁
2019年10月3日(木)
キリスト者は生きて働いておられるキリストともに生きています。ただ文字に書かれた法則に従って生きようとしているのではありません。神さまの導きを常に求めながら生きています。ある時に導かれた道と、また別の時に導かれた道とに違いがあるといこともあるでしょう。人間がもっている本能は歩むべき道を選択する大切な基準です。神さまは本能に従って生きる道に導かれることもあれば、それに逆らって生きる道を導かれることもあるでしょう。いつも主のみこころに耳を澄ましていることが、信仰者として大切なことだと思います。
主が導かれる道であるならば、その道こそ幸いの道であることを信じること、またその道を歩ませてくださるための力も与えてくださることを信じることも大切なことです。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ1・19-20)